昭和五十六年六月十五日 朝の御理解


御理解第八節「子供の中に屑の子があれば、それが可愛いのが親の心じゃ。無信心者ほど神は可愛い。信心しておかげを受けて呉れよ。」


 無信心者ほど神は可愛いとこう仰せられる。屑の子ほど、これはどういう意味でしょうか。ただ神様の又の御神訓にもありますように、真の道も「信心の道も真の道も知らぬ人のあわれさ」という御教えがございます。だから、結局信心なき人はみな神様の目から御らんになれば、あわれな氏子であり屑の子という事になるかも知れませんね。
 信心が例えばあっても、折角御縁を頂いておっても、ならやはり真の信心を頂こうとしない、云うならただ自分の我情我欲を満たす事の為に、云うならおかげを頂きたいというだけの信者であり氏子であったら、やはり神様はお嘆きなさるのじゃないでしょうかね。親の心が分かり、その親の心に添い奉ろうとする生き方こそ、云うならば神様は喜んで下さるまあ氏子ということになるのじゃないでしょうか。
 神様にあわれをかけられるような氏子であっても、又、信者氏子であってもならないね。神様があわれを催されるような憐憫の情をお使いなされねばならないような氏子であってはならない。たとえ信心を頂いておっても、ただおかげおかげで信心を致しておりますというのであっては、やっぱりおなじような事が言えるのじゃないでしょうか。
 親の心が分かるという事、私は信心が分かるという事だと思う。なら親の心が分かって、それに添い奉ろうとするその精進こそが、私は信心の精進はそこにあると思う。ここで言われる天地日月の心になる事、肝要というのはもうそのままが天地のお心なのだから、その心に添わせて頂こう、ならせて頂こうとね。
 精進してこそ初めてここで言われる屑の子ではない、神様が憐憫の情を催しなさるような事ではない。いわゆる、喜んでもらえる、又は安心してもらえる氏子にだんだんとお取り立てを頂く事が出来るようになるのじゃないでしょうかね。
 信心をいよいよ分からせてもらう。ね、それには第一何というても天地日月の心が分からなければならない。いや親神様のお心が分からなければならない。そこからかかわってまいりますさまざまな人間の難儀の様相というものがね、そこに帰着しておかげを頂く。どういう訳でおかげを受けられんだろうかというものを今申しますようにね、親神様のお心を体して親神様のお心に添い奉ろうとする精進である。その精進が私は神様に喜んで頂けるのであり安心して頂けるのであると言うふうに思います。
 昨日は福岡から夫婦で参って見えた。息子さんが今高校に行って居る。先達から学校から呼ばれてまあ高校ともなると、なんか中に暴力団のようなのが居るそうですね。生徒の中にグループを作って、それにその私の方のは、暴力振るうような事はしなかったそうですけれども、そのついて行っておったという事なんですけれども、親としては心配な、又先生もその心配な、それで御両親に注意してくれとこういう事でございました。云うなら子供が出来そこなわんようにというわけなんですから、だから、結局あなた方も長いが、熱心には参っては来ませんけれども、長い間、合楽に御縁を頂いていられる方ですから、又おかげも頂いとるお家ですから、先ずね親の心を分からせて下さい。親神様の思いを分からせて下さいというような信心になって、それに添い奉ろうとする精進をああた方が見せてくると、子供が親の心を分かって、親の心を思うて、こげな事をしちゃ親が泣くぞ、親が心配するだろうというような事はせんごとなるよというて、お話しをした事でした。どうぞ子供が真面目になりますようにだけではいかん。
 今日の御理解、いわゆる神様のだから子供には私共両親の心を分からして下さい。私共夫婦は親の心をいよいよ分かり、親神様をいよいよ分からせてもろうてそれに添い奉る生き方をさせて下さい。先達その方の、その方たちのお父さんがお参りして来てから、私の方の嫁は悪か、人間じゃあなかばってん、兎に角喜怒哀楽が烈しい。朝起きて、起きると先ず一番ぐちに嫁御ん顔色を見にゃならん。はあ今日はにこにこしとる時にゃ今日は機嫌が良かなあと思うて一切がスムーズにいくけれども、機嫌が悪か時にゃ機嫌をとったっちゃなかなか直らん。まるっきり私共老夫婦は嫁御ん顔色ばっかり見とりますというようなお届けがあったんですね。だから本当にお父さん、いわゆる姑親になりますから、その両親が喜んでくれるじゃろうか、安心してくれるじゃろうかという事を先ずひとつ思うてそれば実行しなさいと私は申しましたね。そうすると子供が今度は親の顔を見るようになる。親の顔を見て、云うならば親に心配をかけちゃならんという事にまあ思いを致す事になってくる。ね、同時にそれで信心も頂く事になるのであり、云うなら家庭の上にもおかげ頂く事になるのであり、子供も親が心配せんですむようなおかげも頂くという事になるんだという訳ですね。
 神様に結局、かみさまに憐憫の情、あわれをもようさせる、ないのは信心のない者だけではない、信心があってもいつまでたっても信心がわからんね。云うなら合楽の信心を一番初めに教えられるは親孝行である。親不孝しようなどという者はそげん居らんけども、なら親に本気で喜んでもらいたい、親に本当に安心してもらいたいと本気で思う、又氏子も少ないね。そして孝行したい時には親はおらんといったような、普通一般の事で終わってしまうような事であっては金光教の信者という事にはならん。
 親に喜んでもらいたい、親に安心してもらいたい、そういう一念を燃やすような心で神様にお縋りしていくと、必ずおかげが受けられるというふうに私は申します。親の中にはご先祖もあります。帰ったらすぐ仏壇の中をきれいに掃除をしなさい。お花もきれいなお花と取り替えなさい。朝晩の勤めはしっかりしなさいよ。
 親をいわば、大切にするという事は先祖を大切にするという事にもつながる。親先生を大切にしないで信心の道は立ちません。そういうふうに申します。
 信心しておったら、勿論そこは出来なきゃならんだけではなくて、その親の心が分かったらその心にもう本当にそれに、云うならば勤めさせてもらうという事なんです。
 信心しておるから屑の子ではないという事では無い。これは又の見方でそこを説く人もありますがね。神様は屑の子ほど可愛いと言われるから、無信心者程可愛いと仰せられるから無信心になった方が神様は可愛がって下さるのじゃないだろうかというね、まあそういうまあ冗談ノような本当なような事を言って平気でおる人もあります。無信心者程神は可愛いとおっしゃるから、無信心になった方がいい。又の考え方では自分という者がぎりぎり分かってくる。自分の本心というものがいよいよ分かってくる。本当に自分のような屑の子があるだろうかと自分で思う。自分をいよいよ反省していく。自分をいよいよ高めていこうとする考え方から、生まれてくる我屑の子の自覚といったような事が言われます。けどもあんまり我屑の子の自覚に立つ事はいいけれども、そこから生まれてくるものは何にか知らんけれども、おかげの頂ける心とは違うように最近思うんですね。そして心から詫びていくような生き方ではね、何かおかげが頂きにくいようです。むしろ云うならば、さまざまここでは、全ての事に御の字をつけていくといったような頂き方ですよね。そして本当にお役に立ちたい一念を燃やしていくという事。それはその御理解をまあ頂き、とらえ方と申しましょうかね、屑の子の自覚というよりも私は、神の子の自覚に立つ方がいいと思います。そんなにこれもはっきりした答えが出てる訳じゃ無い。私自身も我屑の子の自覚に立って、いわゆるもうお詫びに徹する、もうお詫びに徹するともうお詫びに極まったというふうに思うてきた時代もありましたけれども、それよりも神の子の自覚に立って、そして神の心にいよいよ添わせて頂こう、御用にも使うて頂こう。ね、もう使いにくい所もあろうけれども、神様どうぞそれこそ見直し聞き直ししてお使い下さいというような生き方の方がおかげを頂くように思うです。
 ですから、結局今日は屑の子というのは、信心の無い者を指しておられるだけではなくて、信心を頂いておってもただおかげ信心に終わっておるならば、それはやはり屑の子という事になるのじゃないだろうか。折角信心しよるとに本当に哀れなこつじゃなあ、本当な信心を分かって徳を受けりゃこういうおかげも頂けるのになあと、神様がお思いになるだろうと、それも五年たっても十年たってもそういう事であったらばです、やはり屑の事いう事になるのじゃないだろうか。悪い事せん、するから悪い事しないからといったようなことじゃないね。
 私共がいよいよね、神様に安心してもらえれる私共になり、そしていよいよお喜び頂けれる、お役にも使うて頂けれる信心内容、又はそういう姿勢、構えを作って神様へ向こうていくという事が神様に喜んで頂くという、又自分も喜べれるというおかげにもつながると思うですね。  どうぞ。